仏教文化の開花
太古の昔より、厳しい冬の豪雪と、一方その雪解け水がもたらす豊かな恵みという自然に育まれ、人々が暮らしてきた会津。
東北地方で唯一古事記にその名を残す会津は、四周を深い山々に囲まれた辺境の地でありながらも、日本海側と太平洋側からの文化が出会う場所として、また東北地方への入り口として、地政学的な要衝であった。 古墳時代にはすでに中央国家との交流があったことから、仏教伝来と同時期に開かれたという高寺(たかでら)伝承に見られるように、会津は仏教文化の流入も早かった。
東北地方でいち早く仏教文化が花開いた地として「仏都会津」と呼ばれる。 その中でも三十三観音巡りは、娯楽と一体となったおおらかな信仰の姿を今に残し、広く会津の人々に親しまれている。
会津三十三観音のはじまり
三十三の姿に身を変えて衆生(しゅじょう)を救うといわれる観音信仰から、平安時代に始まったとされる三十三観音巡り。
会津の三十三観音巡りは、会津藩祖保科正之(ほしなまさゆき)により始まった。保科正之が入封した当時は、徳川幕府の成立により治安や経済も安定し、参勤交代のための街道の整備も進んだため、全国的に伊勢参りや熊野参詣(くまのさんけい)、西国三十三観音巡りなどが盛んであった。これは遠く離れた会津の領民の間でも同じで、片道ひと月、往復二月以上かかる大旅行に多くの人が出かけていた。この様子をみた殿様は、巡礼のために多額の費用が領外に流れることを案じて巡礼を禁止した。しかし巡礼は、観音様のご利益を願う民衆の信仰に基づくものであり、また諸国を観光する娯楽の側面もあったことから、単純に押さえつけることはできない。そこで代わりに会津三十三観音を定めたのである。領民の不満を募らせずに、資金、労働力の流出を防ぐ、名君の采配であった。
会津藩の領内には徳一の時代からの由緒ある仏寺がいたるところにあったこと、また、古代の霊場巡り以来の観音巡りが盛んな土地柄であったことから、老男女をはじめとした多くの領民たちによって、とくに農村部の女性たちによって盛んに三十三観音巡りが行われるように、なった。さらに保科正之が、街道や宿駅を本格的に整備したことにより、会津領内だけでなく近隣の藩からも巡礼に訪れる人で賑わった。
会津五街道の一つ下野街道(しもつけかいどう)の大内宿(おおうちじゅく)では、蕎麦好きの正之が前任地から連れてきた職人によって会津に広められた高遠蕎麦(たかとおそば)や、ご飯を丸めて串にさし、地元では“じゅうねん”と呼ばれるエゴマの味噌をぬって炭火で香ばしく焼いた素朴な郷土食しんごろうが、今も訪れる人の舌をうならせている。
殿様のアイディアにより身近になった観音霊場「会津三十三観音」は観音信仰と娯楽が結びつく形で領民たちに広く受け入れられた。
庶民の巡礼と娯楽
会津にはさまざまな三十三観音がつくられ今に残る。
その一つ寛政八年(1796)に建立された旧正宗寺三匝堂(きゅうしょうそうじさんそうどう)は、通称さざえ堂と呼ばれる螺旋(らせん)状の三層六角の特徴的な観音堂である。上りと下りが全く別の通路となる特殊な木造二重螺旋構造により、参拝者はスロープを一方通行に進んで堂の天井部に至り、そのまま違うスロープを下って他の参拝者とすれ違うことなく出口にたどり着く。かつては三十三体の観音像がスロープに沿って安置され、参拝者はこの堂を一巡することで西国三十三観音巡りができるとされた。さざえ堂は、この不思議な建物を巡る楽しさと、手軽さから庶民の人気を博した。世界にも類を見ない独特の建物は、今も堂の内部を一巡すると異世界を潜り抜けるような不思議な感覚を体感できる。
会津の三十三観音は、国宝を蔵する寺院から山中に佇むひなびた石仏までその形は様々だが、今も息づく観音信仰に守られて地域のいたるところにその姿をとどめており、これら三十三観音を巡った道を、道中の宿場や門前町で一服しながらめぐることで、往時の会津の人々のおおらかな信仰と娯楽を追体験することができるのである。